多摩地域 伝統文化・芸能紹介

武蔵村山市

Musashimurayama City

武蔵村山市 01/04

てんのうさまおん ばやし

三ツ木天王様祇園ばやしは、十二所神社境内にある八坂神社の祭礼の中心行事であり、優美な音曲は地区の住民に親しまれています。祇園ばやしの鳴物は七孔の篠笛と大太鼓であり、その曲は京都に伝わる祇園ばやしであると伝えられています。
以前は毎年7月15日に行われていましたが、現在ではその直前の日曜日の八坂神社の祭礼時に行われ、五穀豊穣、悪疫退散の祈願のため三ツ木地区を巡行する御輿に同行し、大太鼓に合わせて七節の曲を繰返し吹きながら祭礼を盛り上げています。
祇園ばやしは、明治25年(1892)頃に、峰地区の比留間幸次郎氏が浅草の住人金村という人物を招き、長期間寝食を共にしながら伝授されたと伝えられています。
  • 三ツ木天王様祇園ばやし
  • 三ツ木天王様祇園ばやし
武蔵村山市 02/04

じゅうまつばや

重松囃子は、江戸時代末期から明治時代にかけて所沢に住んでいた古谷重松氏が江戸の葛西囃子などを元に独自の節回しと曲目を考案し、近郷近住に広めたといわれています。使用する鳴物は七孔の篠笛、大太鼓1個、締太鼓2個、当り鉦1個に拍子木が加わります。市内の萩ノ尾・赤堀地区に伝わる重松囃子は明治時代初期に農家の蚕室を稽古場にして、古谷重松が自ら村の有志に指導したといわれています。入間市の久保稲荷神社に奉納されている明治7年(1874)2月の「古谷重松太鼓連中奉納絵馬」には重松が指導した囃子連の短冊が描かれており、その中に「はきのふ」と記された短冊があることから、重松が明治7年以前に萩ノ尾地区で囃子の指導をしていたことがわかりました。
 その後、後継者不足から昭和初期に入り囃子は途絶えてしまいましたが、昭和29年(1954)に地元有志が復活させ、平成4年からは昭和40年代に子供囃子を経験した方々が保存会に加わり芸能の伝承が図られています。
重松囃子
武蔵村山市 03/04

よこなかまい

横中馬獅子舞は、横田、中村、馬場の3地区の人々によって五穀豊穣、無病息災、悪疫退散の祈願を目的に長円寺及び各地区の氏神様に奉納されています。現在は毎年4月29日に行われています。
横中馬獅子舞の起源ははっきりしていませんが、獅子舞の時に使う太鼓の胴に「宝暦2年(1752)6月申日御江戸浅草新町高嶋屋喜左衛門作」と記されていたことから、その頃までさかのぼると考えられています。また、『指田日記』の天保6年(1835)7月9日の項に見える「中村獅子アリ」が最古の記録で、さらに天保10年(1839)8月28日の項には「太神宮社地ニ於テ獅子舞アリ」とあり、太神宮(御伊勢の森神明社)の祭礼に獅子舞が奉納されていた様子を知ることができます。
横中馬獅子舞
武蔵村山市 04/04

村山大島紬

村山大島紬の起源は、文化文政の頃です。
文久年間頃から生産も増加し、明治の末期までは村山絣として木綿紺絣(こんかすり)の一大産地となりました。一方、明治の中期頃、岸村を中心とした地域では、太織縞(ふとりじま)、黒紬、縞銘仙(しまめいせん)等の絹織物が生産されていました。明治から大正期にかけて生産されていた村山絣も、社会生活の向上と服飾界の変遷に伴い木綿から絹の織物への転換をすべく、大正初期より絹織物の新製品として本格的な大島式銘仙の研究と絣板(かすりいた)の導入をして製織が開始されました。
幾多の先駆者達の努力と研鑽によって、昭和初期に至り、村山産地の織物は木綿の村山絣から絹の村山大島へと大きく転換し、現在の村山大島紬として、たゆみない発展をしてきたものです。昭和42年に東京都指定無形文化財に指定され、さらに昭和50年には経済産業大臣より伝統的工芸品の指定を受け、その価値が高く評価されています。
  • 村山大島紬
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