多摩地域 伝統文化・芸能紹介

町田市

Machida City

町田市 01/04

お囃子

大戸囃子は、天保年間(1830年〜1843年)に、相模之国阿久和(あくわ)(現横浜市瀬谷区)の若衆が、江戸神田下町囃子の師匠を招いて伝授を受け、そのうちの一人が上相原村大戸の家の養子となり、郷土の若者に祭囃子を伝え、今日に伝承されているものです。大戸囃子は伝授を乞うものが多く、町田市・八王子市から神奈川県、遠くは山梨県まで、20以上の地域にこの流儀を伝える祭囃子が伝わっています。笛・鉦(かね)・太鼓による五人囃子で、舞は獅子・白狐・ひょっとこ・おかめ・狸などが曲に合わせて踊り、演奏を盛り上げます。
三ツ目囃子は、江戸時代後期に小山町に伝えられたと考えられています。幕末から明治の維新の騒乱のため、一時下火になりましたが、明治12年(1879年)に若者の健全育成を目的として復活、盛大に行われるようになりました。三ツ目囃子独特のリズムは、地元の祭礼はもとより、近郊の神社祭礼になくてはならないものとして、今日まで受け継がれています。特に踊り・演奏技術は高い評価を受け、高松宮杯をはじめ多くの賞を受賞しています。
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町田市 02/04

獅子舞

矢部八幡宮獅子舞の起源は元亀・天正のころ(1570年代)で、木曽や矢部の例祭や奥宮開扉(おくみやかいひ)の大祭などで舞われ、獅子宿から神社境内までの道行と、木曽町祭礼での神輿巡幸(みこしじゅんこう)の先導の役目をすることが特徴です。舞演者の腰にさした五色の御幣(ごへい)をもらった人は、その年は無病息災・家内安全であるといわれています。
丸山獅子舞は、元和3年(1617年)長巌法院(ちょうげんほういん)が相原の諏訪神社の再興を図ったとき、村民が五穀豊穣と氏子安泰を祈って奉納したのが初めとされています。雄獅子が牡丹の花かげに隠れた雌獅子をめぐって争い、仙人が解決すべく奔走する「花がかり」として知られます。
金井の獅子舞は、江戸時代の寛文年間(1661年〜1672年)に、金井村で村の平穏無事と五穀豊穣などを祈願し、また干ばつに備えて慈雨(じう)を乞う意味から、竜頭(りゅうず)の獅子が考案され、八幡神社に奉納したのが起源と伝えられています。一匹の雌獅子を二匹の雄獅子が取り合い、河童がその行司役(幣追い(へいおい))をします。
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町田市 03/04

手踊り

百数十年前、千葉県より伝えられたというこなや踊りは、上総の国のこなやの娘の「手踊り」から始まったといわれています。
姿かたちの美しかったというこの娘の役を、いつの頃からか農夫が演じるようになり、農民の生活の喜び・悲しみが歌に託されて表現されます。踊りはさらに、茨城・神奈川・埼玉地方の豊年満作踊りと合流して、町田地方に広まりました。内容は、民謡踊りや、茶番狂言、田舎芝居での雑芸が混ぜ合わさって作り上げられた独特の民芸で、ところによっては、満作芝居、飴屋踊り、オイトコ節などとも呼ばれました。 町田地方では、こなや踊り、満作踊りといい、大正の頃まで非常に流行りましたが、その時代、時代の世相を風刺的に踊りに取り入れたりしたことが良俗を乱すとして、時の為政者の不満をかって興行差し止めとなったこともありました。
郷土の大切な財産としていつまでも語り継がれるべく、この貴重な民芸は代々守り伝えられています。
手踊り
町田市 04/04

和太鼓

町田には、鼓だぬき会、成鼓会、薬師太鼓、街ヤッ鼓など、和太鼓を通じて青少年の健全育成を目指している団体が数多くあります。各団体は、町田各地域の納涼大会やお祭りなどに参加するほか、福祉施設の慰問も行っています。また、小中高校で太鼓教室を開催し、学校の部活動としても多くの子供たちが参加しています。町田市郷土芸能まつりには初回から参加するなど、積極的な活動を通じて、和太鼓は、広く町田に根付いた伝統芸能として認知されています。
手踊り
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