百数十年前、千葉県より伝えられたというこなや踊りは、上総の国のこなやの娘の「手踊り」から始まったといわれています。
姿かたちの美しかったというこの娘の役を、いつの頃からか農夫が演じるようになり、農民の生活の喜び・悲しみが歌に託されて表現されます。踊りはさらに、茨城・神奈川・埼玉地方の豊年満作踊りと合流して、町田地方に広まりました。内容は、民謡踊りや、茶番狂言、田舎芝居での雑芸が混ぜ合わさって作り上げられた独特の民芸で、ところによっては、満作芝居、飴屋踊り、オイトコ節などとも呼ばれました。
町田地方では、こなや踊り、満作踊りといい、大正の頃まで非常に流行りましたが、その時代、時代の世相を風刺的に踊りに取り入れたりしたことが良俗を乱すとして、時の為政者の不満をかって興行差し止めとなったこともありました。
郷土の大切な財産としていつまでも語り継がれるべく、この貴重な民芸は代々守り伝えられています。